9月2日、長崎県警は75歳の無職の男を名誉棄損の容疑で逮捕した。しかし、ただの高齢者ではなかった。この男こそ、39年前に暴力団山口組の4代目組長・竹中正久を射殺したとされ、指名手配されていた「伝説の逃亡犯」後藤栄治であった。後藤は、1985年の山一抗争において竹中組長ら3人を殺害した疑いで指名手配され、その後消息を絶っていた人物だ。今回の逮捕は、後藤が逃亡し続けた約4半世紀に及ぶ時間を振り返り、ヤクザ界の闇とその背景を再び表面化させた出来事であった。

事件の背景と山一抗争

この事件の始まりは、1984年に山口組の創設者である田岡一雄が亡くなった後に起こった跡目争いにさかのぼる。4代目組長に就任した竹中正久に反発した一派が、山広組組長・山本広を中心に一和会を結成。これにより、国内最大の暴力団である山口組は分裂し、暴力団同士の全面的な抗争が激化していった。

この抗争の中心にいたのが後藤栄治だった。後藤は、山本広を支持し、一和会側の要職に就いていたが、竹中組長の暗殺計画を進め、指揮を取ったと言われている。1985年1月26日、大阪府吹田市で竹中組長を襲撃し、組長を含む3人を射殺した事件は、その激化する抗争の象徴として全国を震撼させた。しかし、事件後すぐに後藤は姿を消し、以降39年もの間逃亡生活を送っていた。

指名手配後の逃亡生活

後藤は、事件後警察に自首する意向を示していたが、同時に自らの部下の解放を条件としていた。しかし、状況が変わり、そのまま逃走を続けた。彼の消息は完全に途絶え、極道の世界でも「後藤はすでに亡くなった」という噂が広まっていたほどだった。

後藤の逃亡生活は、1980年代の日本の犯罪史において最も注目を集めるものの一つであり、彼がどうやってこれほど長い間姿を隠し続けることができたのかは未だに明らかにされていない。通常、犯罪者がこれほど長期間逃げ延びるのは稀であり、その手腕や逃亡計画の緻密さは伝説的とされています。彼の逮捕により、その39年間に及ぶ逃亡生活の詳細が今後解明されるかもしれません。

極道の世界での後藤の影響力

暴力団関係者たちの間でも、後藤の名前は恐怖と共に語られてきました。事件後の数年間は、彼が捕まった、あるいは殺されたという噂が流れましたが、どれも信憑性に欠けるものでした。後藤が再び公の場に姿を現したのは、まさに衝撃的な出来事として受け止められています。

暴力団に詳しいS氏は、次のように語ります。「後藤はヤクザの中でも伝説的な存在だった。事件後、後藤がどこに消えたのかは謎だったが、誰もが彼が生きているとは思わなかった。多くの人が、彼はもう死んだと思っていた。彼のように逃げ延びた者は、ヤクザの世界でも少ない」。

名誉棄損での逮捕とこれからの展開

今回、後藤が逮捕されたのは、名誉棄損の容疑によるもので、実に予想外の形で公の場に現れました。彼の逮捕は、山口組と一和会の抗争の終焉とともに忘れ去られていた山一抗争を再び思い起こさせるものであり、極道の世界における彼の伝説を再度浮かび上がらせたといえるでしょう。

ただし、法的にはすでに時効が成立しており、竹中組長射殺に関する罪では刑事責任を問われることはありません。今後の捜査や彼自身の供述次第で、39年間の逃亡生活の裏側や、その間に彼が何をしていたのか、どこで身を隠していたのかが明らかになるかもしれません。

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引用ニュース:https://news.yahoo.co.jp/articles/82cce61fdacff2bb6fecf21924c7990c946cfbe2?page=3